しあわせ商店街

潜在意識の不思議な力

ジョセフ マーフィー解読編

出落ちです。はい。

ジョセフマーフィー

感謝。

 

母が病に侵されてしまい

若い自分にはどうする事もできなくなってしまった。

本屋で気を紛らわすのが日課になっていて

医学のコーナーや何か役に立ちそうな本を見ては

希望と落胆した気分で本屋を後にしていました。

 

ある時、本屋の棚に“奇跡”の文字が視界に入って思わず手に取ってみた。

ジョセフマーフィー著

『眠りながら奇跡を起こす』

 

ん?ん~~?

分かるような分からんような。

胡散臭さ全開でした。

 

とりあえず買って丁寧に何度も読み返しました。

シリーズも何冊か読み、理屈として理解出来たときの喜びは忘れられません。

※聖書をモチーフにした解説が多く、神は〜といった記述のため多少の違和感がありました。

神=潜在意識と置き換えて読むと分かり易いです。

 

とまぁ

理屈で何となく理解できると次は実践です。

 

 

大丈夫!僕もあなたも今日も幸せです。

不思議に夢を叶えてくれたモノ

※今回のお話はあらゆる宗教を否定するものではありません。

信仰の自由も信仰心も尊重した上での私個人の感覚に基づいたお話ですのでご了承願います。

 

 

小さい頃は〜神様がいて〜♪

 

小さい頃から一人ひとりに専属の神様的なナニカが居るもんだと何故か思っていた。

背後霊や守護霊的なものとは別に。

 

後にナニカが分かることになるのですが

こんなエピソードがありました。

 

ある日、外で洗車をしていたら

二人組の女性が近づいてきた。

ニコニコと笑みを浮かべて手には小冊子

『こんにちわ』

 

某宗教団体の方々でした。

『こんにちわ』と返すと

小冊子を渡され自己紹介

『神の存在を信じますか?』

 

反射的につい

『神は私の中に居ます』

『あなたの中にもあなた専属で居ますよ』

やってしまった。

 

驚いた顔の後

『実に興味深い意見ですね』

 

暫し談笑

 

『とても参考になりました』

『いえ、こちらこそ』

 

お互いに謎の満足感を抱えて解散

 

という位に普通に思ってました。

 

後にナニカが

ある本をきっかけに

“潜在意識”と分かり腑に落ちました。

コレはコレで良い思い出です。

  

 

大丈夫!僕もあなたも今日も幸せです。

心配性

あぁ 明日のアレどうしよう

あぁ 来週のアレどうしよう

あぁ 来月のアレどうしよう

 

 

そんなもん知らんがな!!

 

 

と、行かないときの必殺技!!

 

一言つぶやくだけ

 

『今』

 

今に意識を向けるだけ。

今、この瞬間 Right Now!

 

今は何も起こってないでしょ?

今は今を楽しんで行かなきゃ

今がもったいないですよ?

 

 

大丈夫!僕のあなたも今日も幸せです。

幸せと成功

前回、幸せとは超個人的と言いましたね。

普遍的な幸せもありますが、それは社会(資本主義)が作り出した

言わば共通の価値感みたいな物だと捉えています。

 

良く言われるのが、1万円札は1万円の価値があるとみんなが思うから価値があると。

お金の概念が無い人からしたら紙切れですからね。

そうではなく、超個人的な幸せの方が幸福度が高いと思うんです。

 

超個人的な幸せって

あぁ~幸せだなぁ

ん?

でも、あの時より幸せではないよなあ

でも、あの人より幸せではないよなあ

なんて、イチイチ思わないでしょ?

 

普遍的な幸せだと比較が始まります。

それは幸せに一定のゴールが設定されているからです。

しかも主語の大きいゴールです。

一昔前なら

大学というゴール

一流企業というゴール

出世というゴール

結婚というゴール

家庭を持つというゴール

それぞれにゴールが設定されていました。

そして無事ゴールする事が幸せとされていました。

 

そもそもゴールがある時点で、競争です。

それは“成功”であって“幸せ”ではないと考えます。

似て非なるもの

超個人的な幸せにはゴールがありません。

比較があるとすれば自分自身です。

それすら無いかも知れません。

 

ただただ幸せなだけなんです。

 

大丈夫!僕もあなたも今日も幸せです。

 

ちょっとそこまで

さて前回、

幸せの概念をぶっ潰すと大声で言ったわけですが

先ず、あなたにとって幸せとは何かを少しだけ思い出して欲しいんです。

いいですか?

考えるんじゃないですよ?

思い出して欲しいのです。

 

 

どうですか?

思い出せましたか?

 

 

ほとんどの人は思い出せたかと思います。

そしてそれは超個人的で他者から些細に見える事も多いのではないのでしょうか?

 

なんだっけ

ふと腰を屈めた瞬間に幸せを感じる

みたいな文を見たことがあるけれど

幸せとは超個人的で非ロジカルな“瞬間“に訪れたりもします。

 

ちなみに周囲の知人に幸せを感じる瞬間アンケートなるものを取ってみたら

“美味しい“ご飯を食べている時が断トツで多かったです。

“高級な”ではないんです

もちろんそう言った意味合いも含まれるかもしれませんが、“美味しい”には多くの機会があります。

好きな人や家族で食べるご飯は美味しい

お腹が空いた後のご飯は美味しい

久しぶりに大好物をお腹いっぱい食べるご飯は美味しい

などなど

 

どうですか?

幸せのハードルってまだ高いですか?

勝手に価値を上げていませんか?

幸せの価値をちょっとだけ下げてみてはどうでしょう。

 

『奥さん、どちらまで?』

『ええ、幸せが切れたからちょっとそこまで』

 

こんなもんですよ幸せって。

 

 

大丈夫、僕もあなたも今日も幸せです。

幸せをぶっ飛ばそう

みんな幸せかい?

即答で答えられる人は幸せです。

即答で答えられなくても幸せなんです。

 

要はみんな本当は幸せなんです。

 

何言ってんだお前は?

よくある詐欺ですか?

怪しい宗教ですか?

 

はい、わかります。

そうですよね。

何故、そう思うのか考えてみました。

 

それはある意味“幸せ”アレルギーなんだと思います。

 

幸せのハードルを自ら高く設定していて

限られた人にしか幸せは訪れないと考えてしまう

そして幸せそうな人の事を嫉妬する

最早、幸せを嫌っているのでは?とすら思えます。

 

え?なんで?

幸せって苦労しないと手にはいらないの?

人を選ぶの?

じゃあ自分なんてダメじゃん

 

 

なわけないでしょ!

 

 

幸せは人も場所も時間も関係ない

モノじゃないから

 

そもそも“幸せ”と言う言葉がハードルを上げていると思う

何かキラキラした包装紙に綺麗にパッケージングされて

手の届かない高級店に陳列されている

・・・何かイヤな感じ

 

 

だからね、

 

一度幸せの概念をぶっ潰しましょうよ

そこらの商店街でふらりと歩けば置いてあるようなもんなんですから。

 

大丈夫、僕もあなたも今日も幸せです。